7月6日の日記
2004年7月6日後期の発表はオルフェウス教に決定。
オルフェウス教って、
ソクラテスにも影響を与えたという
古代ギリシャの宗教なんですが、
(厳密に言うと、ソクラテスが関係していたのは
オルフィズム・ピュタゴラス学派。別物か?)
どうしたわけか、
日本ではオルフェウス教を中心主題とする
訳書、著書が出てませんでした。
そんなところに出たのがこれ、
レナル・ソレル『オルフェウス教』白水社、2003。
これ一冊だけであれこれ言うのは
どうも信憑性に欠けますが、
プラトンの『パイドン』の中で描かれている魂の不死性に
オルフェウス教がどこまで影響を与えたのか?
ってのをこの本から見てくのはなんか楽しそう。
それより、今は目の前のレポートか。
オルフェウス教って、
ソクラテスにも影響を与えたという
古代ギリシャの宗教なんですが、
(厳密に言うと、ソクラテスが関係していたのは
オルフィズム・ピュタゴラス学派。別物か?)
どうしたわけか、
日本ではオルフェウス教を中心主題とする
訳書、著書が出てませんでした。
そんなところに出たのがこれ、
レナル・ソレル『オルフェウス教』白水社、2003。
これ一冊だけであれこれ言うのは
どうも信憑性に欠けますが、
プラトンの『パイドン』の中で描かれている魂の不死性に
オルフェウス教がどこまで影響を与えたのか?
ってのをこの本から見てくのはなんか楽しそう。
それより、今は目の前のレポートか。
7月4日の日記
2004年7月4日先輩は
「アップルコンピューターの
ノートパソコンを持ってる男は誰でも格好良く見える」
らしい。
BMに乗ってる男に惚れるという話は
一昔前ではそう珍しく無かったですが
パソコンとは・・・。
フェチって自分のコンプレックスの表れなんでしょうか。
BM=財力で説明つきますし。
でも、そうなると巨乳フェチの説明がつかなくなる。
手の血管の好きな女性が自分の手に血管が欲しいとは
まさか思ってないでしょう。
足、手、腕とか異性の体の一部分に対するフェチと
職業、物とかその人物に付随する事柄へのフェチは
分けて考えないといけないのかもしれません。
いや、その前にフェチの定義からか。
「アップルコンピューターの
ノートパソコンを持ってる男は誰でも格好良く見える」
らしい。
BMに乗ってる男に惚れるという話は
一昔前ではそう珍しく無かったですが
パソコンとは・・・。
フェチって自分のコンプレックスの表れなんでしょうか。
BM=財力で説明つきますし。
でも、そうなると巨乳フェチの説明がつかなくなる。
手の血管の好きな女性が自分の手に血管が欲しいとは
まさか思ってないでしょう。
足、手、腕とか異性の体の一部分に対するフェチと
職業、物とかその人物に付随する事柄へのフェチは
分けて考えないといけないのかもしれません。
いや、その前にフェチの定義からか。
7月3日の日記
2004年7月2日ロシア語読めないのに翻訳論を展開するのは笑える。
でも、文法書と辞書を片手に
露→日にすることが翻訳か?
また、ロシア語をそのまま理解できたとすれば
オネーギンを理解することはだが
それは翻訳ではない。
レポの目的が
「オネーギン」のより良い翻訳の提示ではなく、
外国語の、特に厳密な韻律構造を持つ韻文小説を、
母音が多いために原詩の音数律で再現するのが困難な日本語で
翻訳する際の文体(韻文か散文か)の長所と短所を
読み上げた時の音の美しさやテキストの意味から
指摘していくのだとすれば
ロシア語を知らないことはそれほど問題にはならないだろう。
・・・そうか?
んなことないだろ。
でも、文法書と辞書を片手に
露→日にすることが翻訳か?
また、ロシア語をそのまま理解できたとすれば
オネーギンを理解することはだが
それは翻訳ではない。
レポの目的が
「オネーギン」のより良い翻訳の提示ではなく、
外国語の、特に厳密な韻律構造を持つ韻文小説を、
母音が多いために原詩の音数律で再現するのが困難な日本語で
翻訳する際の文体(韻文か散文か)の長所と短所を
読み上げた時の音の美しさやテキストの意味から
指摘していくのだとすれば
ロシア語を知らないことはそれほど問題にはならないだろう。
・・・そうか?
んなことないだろ。
7月1日の日記
2004年7月1日結局、ロシア文学のレポートは
プーシキンの「エヴゲーニイオネーギン」にすることになった。
オネーギン自体は韻文小説なのだが
池田や木村は散文で訳してて
米川や小澤は韻文で訳したりと
バリエーションがある。
四氏の訳を比較して
原文を散文で、または韻文で訳すことの
利点、欠点をつらつらと挙げてくつもり。
ありふれたレポになりそうだけど
四つも訳を並べて文字数稼げるんだもの、
やらない手はないでしょ。
プーシキンの「エヴゲーニイオネーギン」にすることになった。
オネーギン自体は韻文小説なのだが
池田や木村は散文で訳してて
米川や小澤は韻文で訳したりと
バリエーションがある。
四氏の訳を比較して
原文を散文で、または韻文で訳すことの
利点、欠点をつらつらと挙げてくつもり。
ありふれたレポになりそうだけど
四つも訳を並べて文字数稼げるんだもの、
やらない手はないでしょ。
6月21日の日記
2004年6月21日池内紀氏によると
「ブタの前足には
悪魔が入り込む時の入り口にした小さな穴があり、
毛をかき分けて調べると確かにそれが見える」
らしい。
その前に作者は
「『マルコ伝』に曰く、
「彼処の山辺に豚の大なる群、食しいたり。
悪鬼どもイエスに求めて言ふ、
『我らを遣わして豚に入らしめ給へ』。
イエス許したまふ。
穢れし霊いでて、豚に入りたまえば
二千匹ばかりの群、
海に向かひて、崖を駈け下り・・・」」
と、おそらくマルコ5.11−13を引用しているようだが
引用中の「海」は「湖」の誤りではないだろうか。
これはマルコ5.1から推測するに
地中海から最短でも60?離れたゲラサ人の地方(デカポリス)
で起こった出来事であり、
また、
ガラリヤ出身のイエスがデカポリスに行く途中に、
「海」があったのだとすれば
それは「ガラリヤ湖」だと考えるのが妥当だからである。
いや、
引用文が旧仮名遣いであるところから見て
昔の日本語訳が「海」なのか。
(日本聖書教会から1988年に出版された
新共同訳の聖書では「湖」だった。)
ひょっとすると聖書の原文自体が
「海」になってる可能性もある。
聖書の原文は無理なので
とりあえず旧日本語訳と英、独訳を当たってみます。
「ブタの前足には
悪魔が入り込む時の入り口にした小さな穴があり、
毛をかき分けて調べると確かにそれが見える」
らしい。
その前に作者は
「『マルコ伝』に曰く、
「彼処の山辺に豚の大なる群、食しいたり。
悪鬼どもイエスに求めて言ふ、
『我らを遣わして豚に入らしめ給へ』。
イエス許したまふ。
穢れし霊いでて、豚に入りたまえば
二千匹ばかりの群、
海に向かひて、崖を駈け下り・・・」」
と、おそらくマルコ5.11−13を引用しているようだが
引用中の「海」は「湖」の誤りではないだろうか。
これはマルコ5.1から推測するに
地中海から最短でも60?離れたゲラサ人の地方(デカポリス)
で起こった出来事であり、
また、
ガラリヤ出身のイエスがデカポリスに行く途中に、
「海」があったのだとすれば
それは「ガラリヤ湖」だと考えるのが妥当だからである。
いや、
引用文が旧仮名遣いであるところから見て
昔の日本語訳が「海」なのか。
(日本聖書教会から1988年に出版された
新共同訳の聖書では「湖」だった。)
ひょっとすると聖書の原文自体が
「海」になってる可能性もある。
聖書の原文は無理なので
とりあえず旧日本語訳と英、独訳を当たってみます。